スクリーンの二輪 創刊:バイクを知る前に、バイクを愛していた
ポップカルチャー・エディター荒木斗司夫の連載が始動。16歳の夜に『あいつとララバイ』へ誓った日から、初代NINJAで東名に乗った日まで。スクリーンの中の二輪を読み解く宣言。
この記事の注目ポイント
- 漫画・映画・MVのバイクは移動手段ではなく、時代の自由、反抗、速度感を一目で伝える文化記号になる。
- 作品内の車種選択と現実の人気を往復して読むことで、フィクションが二輪文化へ与えた影響を検証する。
高校2年の夜だった。父の本棚から何気なく抜いた『あいつとララバイ』を、朝まで読み切った。ページをめくる手が止まらなかった。免許もない、バイクに触れたことすらない16歳が、あの夜「いつかバイクに乗る」と誓っていた。バイクを知る前に、バイクを愛していたんだ。この連載「スクリーンの二輪」は、そういう話をする場所だ。漫画と映画とミュージックビデオの中で、バイクがどう描かれ、どう時代の空気を背負ってきたか。それを作品の文脈ごと読み解いていく。バイク雑誌の映画紹介コーナーではなく、映画批評の側からバイクを見る。そこがこの連載の立ち位置になると思う。
作品の中のバイクは、ただの小道具じゃない。時代の空気を背負った記号だ。『イージー・ライダー』のチョッパーは、60年代アメリカの自由と、その自由が撃ち抜かれる挫折までを一台で背負っていた。『AKIRA』の金田のバイクは、実在しない架空のマシンであるにもかかわらず、40年近く経ったいまも世界中のビルダーが実車を作り続けている。近未来都市の不安と少年の万能感を一台に圧縮した、20世紀のポップカルチャーが生んだ最強のプロダクトデザインだと僕は思っている。そして1986年の『トップガン』。マーヴェリックが滑走路脇で戦闘機と並走させたのは、カワサキのGPz900R——初代NINJAだ。あの数十秒のカットが「公道最速」という80年代の速度の美学を世界中に刻み、一台のバイクの運命を変えた。スクリーンの中では、バイクはいつも本来の性能以上のものを運ばされている。自由、反抗、速度、孤独。その積荷の中身を読むのが批評の仕事だ。積荷は時代ごとに変わるが、バイクが「歩くより速い青春」の象徴であることだけは、国も年代も越えて変わらない。
僕自身の話をすれば、映画批評を10年書いて、31歳でようやく大型免許を取った。選んだのは1985年型のGPz900R。初めて東名に乗ったあの日、僕の中にはマーヴェリックと金田が同時にいた。作品の文脈で言えば、10代の夜に愛したスクリーンの中へ、現実の側から乗り込んだことになる。ここで批評家として断っておくと、これは単なる懐古趣味じゃない。作品がバイク文化に与えた影響は、いまも実測できるかたちで残っている。名作に登場した車種の中古相場は動き、カスタムの潮流は映画の公開に呼応し、メーカーの新型プロモーション映像は年々「物語」の作り込みを増している。スクリーンと市場は、僕らが思っているよりずっと太い管でつながっているんだ。
日本の話もしておかなくてはいけない。バイク漫画には系譜がある。80年代の『バリバリ伝説』が描いた峠とサーキットの熱、90年代の『キリン』が描いた大人の矜持。そして近年は『ばくおん!!』や『スーパーカブ』のような、日常の中にバイクを置き直す作品が読者の入口になっている。速さや反抗ではなく、通学路と燃費の話から始まるバイク漫画が支持される——この変化自体が、時代の空気の変化そのものだ。どちらが上という話ではない。スクリーンの中のバイクが背負う積荷は、時代ごとに掛け替えられていく。その積み替えの現場を見届けるのも、この連載の仕事になる。ページをめくる手が止まった経験のある人なら、きっとわかってくれるはずだ。
この連載でやることは3つある。第一に、名作の中のバイクを時代背景ごと読み解くこと。第二に、アニメやMVの新作に登場する二輪から、いまの時代の空気を拾うこと。第三に、スクリーンから現実のバイク文化への「着地」を確かめること。あの作品を見て免許を取った人が、いまどんなバイクに乗っているのか。そこまで追いかけて初めて、批評は現実と接続する。ミュージックビデオも大事な守備範囲だ。MVの中のバイクは3分間で時代の空気を語る、最も圧縮された二輪表現で、洋楽でも邦楽でも、アーティストが「自由」や「別れ」を運ばせる乗り物として繰り返しバイクを選んできた。なぜ車ではなくバイクなのか。その選択の理由を考えるだけで一本書ける。第1回は、すべての始まりである『あいつとララバイ』論から書くつもりだ。深夜の湾岸、あのZ、そして眠らない16歳。スクリーンの中の二輪は、いつだって現実の半歩先を走っている。それを確かめに行こう。
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